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けいほく通信 #1 ──京北は都の大工のふるさと - 株式会社カモノセログ

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本日のカモノセログ

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けいほく通信 #1 ──京北は都の大工のふるさと

カテゴリ: けいほく通信 作成日:2020年06月15日(月) 最終更新日:2020年06月15日(月) 公開日:2020年06月15日(月)

こんにちは。まるおです。

梅雨入りして京都市内は空気が露を含んで、体にまとわりつくよう。。

こんなときにこそ、すずしい京北に遊びに来てください!

 

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↑ だいたい2〜4度くらい市内よりも気温が低いようです

  

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 * * * *

 

さて、カモノセログのある京北に勤めるようになって、まず気になるのは「京北ってどんな場所?」

 

「道の駅の野菜がおいしい!」

「お店の人がやさしい!」

「週末になるとピザ屋の前にカッコいいポルシェが駐まってる!」

などなどいろいろありますが、まずは気になるのはその歴史。

 

調べてみると、平安時代から今日のカモノセログまでつながる深〜〜〜いつながりが見えてきました!

 

 * * * *

 

最初に京北の地が歴史の書物に登場するのは、都の「修理職」として(「しゅりしき」と読むそうです)。

都が長岡京へ遷るときに、京北の杣から献上された材木がとても優れていたことから、杣御料(天皇直轄の材木山)として認められ、

平安京の造営を任され、その後も長らく都の修理職として都を支え、材木と大工の技術を都に提供してきました。

 

京都に都があった長い年月のあいだずっと、京北の山の木材と大工が都の造営を支えてきたのです。

 

古くは『方丈記』にもある都の3分の2を焼き尽くしたという安元の大火から、焼き尽くされて「都は野辺の夕ひばり…」の応仁の乱、

江戸時代の京都三大大火まで、京都の町は幾度となく大火に焼かれてきました。

そのたびに復興のための木材を、京北の山が供給し続けてきたのではないでしょうか。

 

 古家撰傳集

 

「 1200年の都」を支えてきたのは京北の樹!

カモノセログの技術は1200年の技術!!──かどうかはさておき、「住めば都」の施主さんのお家を支えています!

 

 * * * *

 

古い記録を読んでいると、

「桂川に流した栗の木が嵯峨で沈んでしまった、金返せ!」

とか

「修理職が道楽に凝って税金を取り立てにこないので困ってる」

とか、

面白い話がいっぱいあるのですが、気になったのは『森と日本人の1500年』という本に書いてある一節。

 

 ところが、現代まで続く杣があった。ざっと一四〇〇年続く林業地である。

 山国杣(現在の京北)と高島杣だ。

 

藤原京から平安京までつぎつぎと続けられた都の造営、その材木を生む山はいわば「使い捨て」で、

木を植えて育てるという、現代でいう「林業」ではありませんでした。

それが日本で最初に持続的な林業が行われた地の一つが、京北だというのです。

 

 当地に生えるスギは、一般にウラスギと呼ばれる品種である。

 これは日本海側に分布する萌芽性と伏状性の強いスギのことだ。

 通常のスギなど針葉樹は、幹を伐る、もしくは折るともう生えてこないが、

 ウラスギは切り株から萌芽を出すうえ、枝が地面に接すると、そこから根を生やし

 枝が幹となって立ち上がる性質を持つ。

 

こうした性質を活かして、おそらくは枝を山に挿すことで植林を行なっていたのだそうです。

1町(1ha)500本程度の疎植だった(現在の北山杉は1haあたり5000~10000本の密植)というので、

陽をたっぷりと浴びて太く育った杉が立ち並ぶ、今日の北山とまた違った見事な景色が浮かぶようです。

 

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カモノセログの森。京北林業の1400年の歴史、その森がカモノセログの家づくりを支えています!

 

京北に日本最初の持続的林業の土地になったのには、もちろん土の良さに加えて、

都から程よい距離で過度の収奪がなかったとか、上桂川の水流が大量に搬出できるほどにははやくないことなど、

さまざまな要因があるんだと思いますが、

やっぱり一番の要因は、京北の人が森を大切に想っていたということに尽きるのだと思います。

 

京北には杣の領主として36の家が置かれ、材木を年貢として納めたのだそうですが、

面白いことに、その36の山の面積がはかったように均等だったそうです。

このような平等な運用が続けられた土地は日本の歴史上ほかにほぼ無いことだそうで、

この地の人々がむかしから、勢力争いや蓄財ではなく、山からの恵みに対して謙虚に誠実に向き合ってきた証なんじゃないかと思うのです。

 

 

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